「AI失業」のための特別なセーフティネットは必要か? シンギュラリティ前夜06
シンギュラリティ後もセーフティネットなんか必要ない
AIの台頭によって職を失う人のためのセーフティネットが必要だということもよく言われていますが、私はそうは思いません。 AI(人工知能)の能力が人を超えて職を失う人がたくさんいるからといってそのための特別なセーフティネットは必要ないというのが私の考えです。
まず、かつてカール・マルクスが言ったとおり資本主義社会では多かれ少なかれ常に失業者が発生するものなのですから、「失業者の生活を支えるセーフティーネットの必要性」はシンギュラリティうんぬんとは関係の薄い話だと私は思います。
失業と 労働力の移動が社会を発展させてきた
蒸気機関の発明以来、新しい技術によって機械化・自動化が進むときには必ず大量失業を伴ったのです。自動車の組立がロボットに置き代わったときも、駅の改札が自動改札になったときも、貨物船の主流がバラ積船からコンテナ船に変わる過程においても多数の人が職を失いました。AI(人工知能)の台頭も、こうした変革の一つに過ぎません。
けれどもこうした危機的な大変動にみまわれても、人々は新しい社会への適応をはかり、新しい産業へと労働力がシフトしてきました。そのようにして社会は発展してきたのです。技術変革によって職を失う人を公のシステムで救済すれば新たな職能の収得や成長分野への人材移動が促されず社会の発展は停滞してしまいます。
AI台頭はそもそもリスクじゃない
そもそもセーフティネットというものは
・予測不能な将来のリスクに対して
・多数の人が原資を負担して
・リスクが顕在化したときに、損失を受けた人に対してその損失に応じた補填を行う、ものです。
現存する職業の多くが将来はAIに置き換わるだろうということはずいぶん昔から予測されてきたことであって、上述の「予測不能な将来のリスク」ではありません。のみならず、それがほぼ確定的なことであるという意味では「リスク」でさえありません。しかもこの先何年もあるいは何十年もの準備期間が与えられているのです。
将来ほぼ確定的に起こることに対して自分の努力で備えをした上で、生き残れるか生き残れないかはそれこそ自己責任の範疇ではないでしょうか。そこを自己責任とせずに何を自己責任にできるでしょう。その備えが及ばないとしてもそれは生存競争における敗北に過ぎません。手をこまねいて備えをしない、あるいは備えようともしないのは怠惰以外のなにものでもありません。
AIの台頭に対して私たちにできることは幾つもあります。たとえば、
・AIによって代替されない今よりも高度な職能を身につける。新しいビジネスを考案する
・コスト的な理由で AIに置き換えられにくい職業に転職する
・AI失業を見越して今から死にものぐるいで働いて金を貯める。
現状の社会保障制度で十分
以上のような理由で、AIの普及、そして来るべきシンギュラリティ(技術的特異点)の到来にともなう失業に対しても、既存の社会保障制度と、それを裏付けている社会保障理念の範囲を超えるべきではないと私は思います。現在、給与所得者には失業保険というセーフティネットがあり、自営業者が廃業を余儀なくされ、新たな職業につくことが出来ず生活が立ち行かなくなる場合には生活保護の制度があります。こうした制度によって憲法が保障する「健康で文化的な最低限の生活」は維持され得るのであり、これで十分です。
セーフティネットのあり方はつまるところ社会全体が負うべきリスクと自己責任との線引きをどこに置くかという価値観の問題です。その価値観を単に職を失う人が多いからとか、高度技能者、専門職が職を失うからといった理由で安易に変えるべきではないと思うのです。
私とて10年後には失業して路頭に迷っているかも知れません。そうした可能性が今の時点で分かっている以上、無い知恵をしぼって今の私にできることを精一杯やるしかないのだろうと思っています。
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