昭和の東急世田谷線
1990年代まで東急世田谷線では緑色に塗装された木造の電車が走っていました。
2両編成は今とかわりませんが前後の車両の連結部を通り抜けることはできず、旧式の連結器が仲むつまじく手に手を取り合って2両をつなぎとめていました。
冬には座席下のヒート暖房でお尻が熱かったりもしましたが、リズミカルな揺れと相まって心地よい眠気をさそいました。冷房はなく夏には天井に付けられた幾つかの扇風機がまわるだけでした。その代わり運転台の横と連結部に大きく開放できる窓があって、四季折々の香りを含んだ風が心地よく車内を吹き抜けてゆきました。
走行中は常に大きく揺れましたが乗り心地は決して悪くありませんでした。それはJR車両の半分ほどしかない短い車両と旧式台車と木製の枕木がもたらす特徴的な揺れ方のせいです。ダッチロールのような横ねじれと縦方向のバウンドが一定のリズムで繰り返され、あたかもお母さんがむずかる赤ちゃんを上下に揺すりながら身体を左右に振ってあやしているかのような、のどかでユーモラスな揺れでした。お客さんも吊り革も運転手さんも車掌さんも、右に左に上に下に揺れていました。
昭和初期に製造された木製内装の車両は走行している間中ゴトゴト鳴りつづけ、台車はギシギシ、車輪はゴロゴロ、窓ガラスはガタガタ鳴り続け、さながら下町の町工場のようでしたが別にうるさくは感じませんでした。ただし隣の人の声さえも聞こえないので耳のそばで大声を出して話しました。
駅に電車が停まるたびにそうした音がぴたりと止んで優しい静寂が車内を満たしました。そのひととき鳥や虫の鳴き声、風の音、さらには線路ぎりぎりに立ち並ぶ家々から子供の声や食器を洗う音まで聞こえたりもしました。車掌さんが発車可能を伝えるチンチンという鐘の音を合図に電車はふたたび動き出しました。ガタガタ、ゴトゴト、ゴロゴロ、ミシミシ。
開け放たれた窓からはときおり蒲焼きの匂いや焼き鳥の匂い、カレー、ラーメン、焼き魚、その他いろいろな匂いが入ってきて空腹感を呼び覚ましました。そうした匂いが無いときには木の床からコールタールの匂いが仄かに立ち昇っていました。
小さな車両は横幅が狭く、両側の座席からお客さんが足を伸ばせばつま先がぶつかり合うほどでした。雨の日には通路を歩く人の邪魔にならないようにすぼめた傘を両足に挟んで座りました。傘から落ちた雨水のしずくは板張りの床をしっとりと滲ませました。
終着駅と路線のちょうど真ん中にある駅を除いて無人駅です。運転台の後ろに運賃箱がついていました。ただの木箱です。ペンキ文字で「大人110円小人60円」と書かれていました。運賃が変わるとペンキで塗りつぶされ、ふたたび新料金がしたためられました。「大人130円 小人70円」。乗車するときその小箱に小銭を入れます。チャリンッ。もちろんお釣りなど出てきません。小銭が無いときには運転手さんか車掌さんにお札を手渡してお釣りをもらうのですが、1980年代前半頃までは乗り合わせた見ず知らずの乗客どうしで両替しあう光景も見られました。
東急世田谷線はもともと渋谷から直通する路面電車として設計されたため1990年代までホームの高さが30センチほどしかなく、乗るときには急なステップを2段上がらなければなりませんでした。杖をついたお年寄りが来ると車内のサラリーマンがおばあちゃんの右手を引っ張り上げ、OLがおばあちゃんの左手を引っ張り上げ、ホームの女子高生がおばあちゃんのお尻を押し上げ、大学生が両側からおばあちゃんの肩を持ち上げて電車に乗せました。
ほんの30年前の話です。そして、もう30年も昔の話です。
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