やすらはで 寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門・後拾遺集)
やすらはで 寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門・後拾遺集)
「またあとでメールするね」とか「明日 電話するから…」とか言ったものの、失念したり、仕事でヘロヘロに疲れて億劫なあまり、すっぽかしたりしてしまうことがよくあった。
こちらは心の中で軽く「ごめん…」とつぶやいて「あとでメールする」と言った自分の言葉を無かったことにする程度の気持ちだが、相手は 僕がメールしたり、電話したりするのを 今か今かと寝ずに待っていたりする。
こういうことが度重なり、彼氏や彼女と諍いになった経験のある人も多いのではないだろうか?
「あとでメールする」とか、「今日の夜 電話するね」などと、安易に言うべきではないのかも知れないのだが、あとでまたメールしたいという気持ちそのもの、電話したいという気持ちそのもの、そこに自分の相手へのアフェクションが凝集されていたりするからむずかしい。
現代に生きる僕らが「あとでメールするね」と書く気持ちに悪意がないのと同様、「今日行きます」と遣いを送った王朝の色男にも、相手を弄ぶ気持ちはなかったことだろう。
こんな歌もある。
今来むと 言ひしばかりに長月の 有り明けの月を待ち出でつるかな(素性法師・古今集)
ところで、平安時代に、想う人の来訪を待ちわびた気持ちと、この現代にメールや電話を待つ気持ちと、そのニュアンスは同じなのだろうか?
さらに、LINEの世代ではどうなのだろうか?
またあとで話そうね、と書かれたきり通知のないLINE画面をみて、あるいは、こちらが「こんばんは!」と書いたのがむなしく未読のまま 夜が更けてゆくのを、
今の日本人、これからの日本人も、平安の歌人たちと同じように感じるのだろうか?
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