AI社会に人々は慣れてゆくのか? シンギュラリティ前夜02
人工知能の能力が人を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)を経過して、生活の、さらには人生の大半の部分をAIの助言によって方向付けられるようになったとき、それを何の違和感もなく受け入れる人もいれば、生理的に受け付けない人もいるだろう。頑強に抵抗する人も中にはいるかも知れない。しかしある程度時が経てば、皆きっと慣れてしまう。
30年近く前、友人知人にプライベートな連絡をするときに電子メールを使うのは無粋きわまると思われていたし、社内の同僚に連絡をするとき直接口頭で伝えずにメール送りつけることさえドライ過ぎると違和感を感じる人が多かった。ところが今では年賀状の季節でもないのに友人から手書きでしたためた手紙が封書で届いたらびっくりするほどである。
歳月は人を順応させるのだ。電車に乗るとき切符を買わなくなったことにも、小学生の大半が学習塾から夜遅く帰ってくることにも、買い物をしたときに消費税を払うことにも、駅に緑色の公衆電話がなくなったことにも、いつの間にか私たちはすっかり慣れてしまっている。
こうした「慣れ」の中で最たるものは、「先を行く新技術に人の感覚は後から付いていく」というパターンに人々が慣れたことではないだろうか。昔は人々の感覚の変化と新しい道具の出現とはそれほどのタイムラグを伴わなかっただろうと思う。つまり人々の感覚が変化して既存の技術や社会制度に不満を感じるようになり、そのうち誰かがそれを解決する妙案を思いつく…そういうふうにして文明は発達を遂げてきたのだ。
ところが今日人々の感覚は新しい技術の三歩後ろを、ときには死にものぐるいで、ときにはしおらしく控えめに付いて行く。
人々の感覚の変化を技術が追いかける時代から、技術革新の後を人々がの感覚が追いかける時代へ。まるで、犬に首輪とリードをつけて散歩させる時代から、犬が人間に首輪とリードを付けて散歩させる時代に変わったようなものだ。
けれど、きっと人間はそんな大転換にもいつの間にか慣れてしまう。犬のほうがそれに慣れるかどうかは分からないけれど。
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