昭和のプラモデル屋さん

友達が少なく一人遊びの多かった私にとってプラモデル作りは読書とならぶ楽しみでした。大抵のプラモデルが小学生にもなんとか手の届く値段だったということもあります。


プラモデルだけを売っているプラモデル屋さん(プラモ屋)があちらこちらにありました。通学区域内だけでも3件のプラモデル屋さんがあり、狭い店内にプラモデルの紙箱が所狭しと、そして天井までうずたかく積まれていました。


そのうちの一件に私は小学生の私は足繁く通っていました。いつも薄暗くひっそりと静かでした。店番がいるわけでもなく店の奥に向かって「すみませーん!」と大声を出さないと誰も出てきませんでした。商品の回転はそれほど良くはないらしく、窓際に積まれた紙箱は日に焼け、上の棚に積まれた箱にはほこりがうっすらと積もり、ときおり店の主がパタパタとハタキをかけていました。


実にいろいろなプラモデルがありました。飛行機、船、自動車、バイク、電車、人工衛星、東京タワーなどの建築物、宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999、姫路城…。


プラモデル屋さんにはプラモデルをつくるための様々な道具も売っていました。接着剤はもちろんのこと、ニッパー(ハサミよりもパーツをきれいに切り取ることができます)、艶消し液(除光液みたいなものです)、塗料、サンドペーパー(紙やすり)、完成したプラモデルを飾るためのケースやスタンド等々です。


私が熱中したのは旧日本海軍の戦艦や戦闘機、ドイツ軍戦車などの軍用兵器でした。といっても別に小学生のときから右傾思想に染まっていたわけではありません。多種多様なジャンルの中でもいちばんヴァリエーションが豊富で、たとえば空母といっても一つ一つが個性的な形状をしているので少しずつコレクションしていく楽しみがあったのです。


プラモデルをつくるときは接着剤にしろ艶消し液にしろ塗料にしろ揮発性油類、つまりシンナーの類を使います。夢中になって作っていると部屋の中にシンナーの匂いが充満してきました。ラリってしまわなかったのが不思議なくらいです。


ともかく私は図書館へ行くのと同じくらいの頻度でプラモデル屋さんに通い詰めました。買うつもりがなくても箱に印刷された色鮮やかな戦艦や戦闘機や戦車の絵を眺めているだけでワクワクしました。


かの有名な機動戦士ガンダムのプラモデル、いわゆる「ガンプラ」が登場したことにより街のプラモデル屋さんにちょっとした変化が起こります。男の子たちがおしなべてガンプラに熱中し、ガンダムシリーズのプラモデルばかりを買うようになりました。多くのプラモデル屋さんでも品ぞろえをガンプラ中心に切り替えました。それに合わせて改装するプラモデル屋さんもあり、それまで文房具屋さんと大差ない地味な店構えだったのを一転してレフランプが煌々と灯る明るく軽やかな色使いのお店に変えたりしました。そうしたお店では機動戦士ガンダムのテーマ音楽が大音量で流れていました。燃え上がれ燃え上がれ燃え上がれガンダム!♪


けれども私はガンプラにさっぱり興味がわきませんでした。相変わらずグラマン戦闘機やメッサーシュミットや川西飛行艇やUボートを作り続けていました。私は孤立を気にしない子供で、友だちと話を合わせるために自分の趣味を変えようとはさらさら思わなかったのです。みんなが見ているテレビ番組、たとえば「オレたちひょうきん族」等を自分も見ようともしませんでしたし、当時大流行したルービックキューブにも興味を持ちませんでした。


私が通い詰めていたプラモデル屋さんはガンプラフィーバーの時流に乗らなかった(あるいは乗れなかった)らしく品ぞろえは変わりませんでした。相変わらず薄暗い店内は以前にも増してひっそりとしていました。そのおかげで私は独り心行くまでプラモデルの箱を眺めては想像力を膨らませ至福の時間を過ごすことができました。


ある日いつものようにそのお店に行くと昼間だというのにシャッターが降りていて、紙に手書きで「○月○日をもって閉店させていただくこととなりました。長年のご愛顧に感謝申し上げます。店主」と書いてありました。


そのプラモデル屋さんの閉店とともに私のプラモデル熱も終焉を迎えました。そのお店で買ったアメリカ海軍の戦艦ミズーリが私にとって最後のプラモデルともなりました。


ほんの30年ほど前の話です。そして、もう30年も昔の話です。

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ひろたよしゆき フリーライター 翻訳者