昭和の銀玉鉄砲
まだゲームウォッチもファミコンも登場していなかった時代、男の子たちは雨さえ降っていなければ外を走り回っていました。女の子も女の子なりに外遊びをよくしていたと思います。
私が友だちと興じたのは主に缶蹴りやドロケイでしたが高学年になると戦争ごっこをするようになりました。その主力兵器だったのが「銀玉鉄砲」です。引き金を引くとプラスチック製の銃身から直径5ミリほどの銀色の玉がパチンと飛び出します。射程距離はせいぜい5メートルといったところでしょうか。この手の玩具は人に当たると危険だという理由で大人たちからは歓迎されないものですが、銀玉鉄砲に関してはその「低性能」が幸いしたのか親たちからも黙認されていたように思います。
銃本体はいちばん安価なもので300円、凝ったつくりのものでも1,000円ほどで買うことが出来ました。銀玉のほうは百個入り1箱百円だった気がしますが実を言うとよく分かりません。なぜなら一度も玉を買ったことがないからです。公園に行けばそこら中に銀玉が落ちていて、それを拾い集めると一日の戦闘に十分な弾丸が補給できたのでわざわざ買う必要はありませんでした。よほどの激戦が繰り広げられていたのでしょう。
私たちの戦争ごっこは近所のちょっとした起伏のある公園で展開されました。小高くなった場所を「要塞」に見立てて銀玉鉄砲を打ち合うだけの他愛のないものでした。際限なく銃撃戦が続くだけで互いの要塞を占拠するには至らなかった気がします。双方とも難攻不落の構えだったのかも知れませんが、そもそも銀玉鉄砲の射程が相手の要塞まで届いていなかったようにも思います。陣地を飛び出して接近戦を試みることもありましたが相手の集中砲火を浴びて撤退していました。至近距離から撃たれて手や顔などの露出部に当たるとそこそこ痛いのです。
引き金を引くときにスプリングの押し返しで引き金が人差し指の第二間接あたりに食い込みます。そして撃った瞬間パチンという刺激を指に感じます。そのせいで長時間撃ち続けていると人差し指が痛くなってきました。
私ははじめのうち300円のいちばん手頃な銃を持っていましたが、そのうち500円くらいのものを手に入れました。一発撃つごとに少しずつ回転する弾倉が上部に付いているのが気に入りました。ずっと後になってから分かったことですが300円のものの外観はコルトー、500円のものはワルサーP38という実在の拳銃がモデルになっていたようです。
私たちが銀玉鉄砲で撃ち合っていたころ、より年長の中学生たちの間ではエアガン(空気銃と和語で呼ばれていました)が流行りはじめており、その弾丸も初期の「てるてるぼうず型」から球形のBB弾に移行しつつありました。けれどもエアガンは銀玉鉄砲よりずっと高価で小学生のお小遣いでは手が届きませんでした。同じ公園でエアガンを撃ち合う中学生たちを横目に私たちは相変わらず銀玉鉄砲で銃撃戦をしていました。
あるとき、公園を散歩中の高齢者に流れ弾が当たったと学校に苦情が入ったらしく、それを受けて公園での銃を使った戦争ごっこが禁止されてしまいました。正直のところ私たちはかなり不満でした。銀玉鉄砲の弾が散歩道にまで届くはずがないのです。仮に本当に弾が当たったのだとしてもそれは中学生の撃ったエアガンだろうという確信がありました。けれども私たちは素直にその禁止令に従いました。
戦争ごっこが出来ないとなれば銀玉鉄砲に用はありません。ちょうどその頃には少年サッカーが盛んになったこともあり皆サッカーに夢中で、友だち同士で公園で遊ぶということ自体が少なくなっていました。私の銀玉鉄砲も部屋の隅でほこりをかぶり、やがてどこかに行ってしまいました。
ほんの30年ほど前の話です。そして、もう30年も昔の話です。
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