王妃シャックリーヌの婚礼 ~クシャミ帝国衰亡史 第一部~
王妃シャックリーヌの婚礼
~クシャミ帝国衰亡史 第一部~
王妃シャックリーヌは、クシャミ帝国700年の歴史上最も権勢をふるったと言われるゲップ帝の正妃である。
ゲップ帝が即位した14世紀当時のクシャミ帝国では、西部にネゴト人、東部にハギシリ人という二つの民族が暮らしていた。古来ネゴト人の間では他人と出会った際に交わす挨拶として男はげっぷを、女はしゃっくりをする風習があり、それゆえネゴト人は幼いときから男の子はげっぷを、女の子はしゃっくりを意のままにできるよう厳しく躾けられた。とりわけ女性については昔から、かわいらしく上品なしゃっくりをすることが女性の魅力であるという伝統的な価値観があり、男たちは成人するや否や、かわいらしく上品なしゃっくりをする女性を妻にめとろうと先を争ったものである。現在西クシャミ地方において魅力的な若い女性のことを「しゃっくり娘」と呼ぶのはこの習俗に由来する。
ネゴト人の暮らす村々では毎年春の種蒔期になるとネゴト人の守護神メマイに豊作を祈願するタチクラミ祭が行われる。この祭礼には豊作祈願という本来の目的の他に、婚期を迎えた男女の出会いの場という性格もある。太古の昔からネゴト人の間では、タチクラミ祭で理想の伴侶に出会えることもメマイ神のありがたき恩寵であると信じられてきた。したがってタチクラミ祭に集ったネゴト娘たちは未婚の男どもを惹きつけようと、若男に近づいては盛んにしゃっくりをする。一方男たちの側にしても極上のしゃっくり娘を妻にめとることは男として無上の誇りであると同時に一族の輝かしき栄誉でもある。そういうわけでタチクラミ祭の日には村中の娘たちが競うように発する幾千万のしゃっくりが野を越え山を越え響きわたり、さらには西風に運ばれてハギシリ人の暮らす東クシャミ地方にまで届くほどだった。まさしく帝国全土に春の訪れを告げる風物詩である。
さて。後にゲップ帝の正妃となるシャックリーヌはネゴト人の酋長イビキの次女として生まれ、幼いときから花も恥じらう可憐なしゃっくりをした。そして彼女が成長すればするほど、そのしゃっくりには優美さと気品が加わり、さらに成人を迎えるころには麗しさと艶やかさを帯びた。男ならば誰でもそのしゃっくりを聞いただけで例外なく恋に落ち、どんな荒くれ者も骨抜きにされてしまったものである。その評判はクシャミ帝国全土にとどろき渡り、やがてはゲップ帝の耳にまで及ぶところとなった。ゲップ帝はシャックリーヌの噂を聞きつけるや否や、酋長イビキに使者を遣わし、シャックリーヌを妃にめとりたい旨を伝えさせた。帝国の頂点に君臨するゲップ帝が国一番のしゃっくり娘を妻に娶らんとしたのは至極当然のことである。縁談を伝え聞いて酋長イビキは驚喜した。なにしろ辺境の寒村を率いる一介の酋長に過ぎないイビキが、愛娘シャックリーヌの宮入りによって帝王の姻戚となれるのだから無理もない。
クシャミ帝国ではネゴト人、ハギシリ人それぞれの首長が交互に王位を継ぐのが慣例であり、ゲップ帝は、ハギシリ人出身の先帝ウツラウツラが逝去したのを受けて即位したのである。ゲップ帝が弱冠16歳にして夫婦の契りを交わした前妃ネオキは王妃にふさわしく至高のしゃっくりで帝を魅了したが、不幸にも前々年の暮れに肺病を患い若くして全能の神メマイの元へ旅立った。ネオキ妃亡きあと居城の内は静寂に包まれ、なおさらに喪失の哀しみと寂しさを醸していた。ネゴト人の風習に従い一年間の喪に服したゲップ帝も、喪の明けた今となっては早期に後妻を迎え、胸中の憂いを払拭したいと思い始めていたところである。それだけではなく、ゲップ帝がネオキ妃との間にもうけた今年7歳になる王子ニドネの将来を案じ、王子が雄々しき青年に成長するためにも、ネオキ妃に劣らないしゃっくり娘を宮中に迎え入れる必要を感じたのであろうことは想像に難くない。
初夏、国土の7割を占めるクシャミの草原では風にそよぐ草が波のように揺れる。クシャミ帝国が最も美しく彩られるこの季節のある日、ゲップ帝と新妃シャックリーヌとの婚礼が盛大に執り行われた。参列者は周辺諸国の王侯貴族たちはもとより、現帝に仕える家臣たち、クシャミ帝国全土から馳せ参じた諸村の酋長たち、先王ウツラウツラ帝の妻である皇太后、そしてシャックリーヌ妃の親族等々、優に千人を超える規模となった。宮殿の壮麗な大広間に招じ入れられた参列者たちは、それぞれのしきたりに従って挨拶を交わした。すなわちクシャミの男たちはげっぷ、女たちはしゃっくり、そしてハギシリ人は男も女も歯ぎしりをして互いの長旅をねぎらい敬意を表しあったのである。一堂に会する千人の参列者たちが間断なくげっぷしたりしゃっくりしたり歯ぎしりしたりする様は壮観であったに違いない。後世の歴史家ネボウはその著書「クシャミ帝国700年史」の中で次のように書き記している。
「男たちのげっぷは大地を揺るがし、女たちの麗しきしゃっくりは夏の野に春の花々を返り咲かせ、老若男女の歯ぎしりが夏草を震わせた。その全てが帝国の晴れがましき日を祝福していた。しかし皮肉にも、万人の魂を潤わせるその美しき光景はやがて訪れる悲劇を暗示する甘美な序曲であった。」
さて、いよいよ婚礼の主儀にさしかかると深紅の衣をまとった神官ネガエリが古式ゆかしき祝詞を朗々と唱えた。
新郎のげっぷよ、猛々しく胃から沸き上がれ
新婦の横隔膜をひきつらせるほどに、
父なるげっぷが地鳴りとなって悪霊を追い払い
母なるしゃっくりは田畑を潤す雨とならん
げっぷよ、しゃっくりよ、全能の神メマイの加護のもと、
今ここに仲睦まじく手をとりあい永遠の契りを交わすべし
祝詞の一言一句が参列の者たちの心深くにまで染みわたり、中には感極まって涙するものもあった。神官ネガエリが右手に持った銀杖を高々と掲げるのを合図に、ゲップ帝は威厳に満ちたげっぷをした。ネガエリが銀杖を左手に持ち替えてふたたび高々と差し上げたその刹那、女神のハミングを想わせるシャックリーヌの美しいしゃっくりが王城の広間に響きわたり、人々の胸をふるわせた。
第二部へつづく
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