城砦 アラフィフ引きこもりの言い分 7

僕は聞きながら「ちょっと待ってくれ」と心の中で幾度も呟いた。僕が聞いているかぎり彼女は入社後3年ほどで辞めたと聞いており、その短い期間に彼女が職場全体のルールを作るような権限を持ったとは思えない。おまけに彼女がつくったルールとやらには「30分前に出社」だの「先輩が帰るまで帰らない」だの明文化することが労働基準法上問題になりそうなことが含まれるし、出勤時間や退勤時間に関することは就業規則や労働契約に書かれるものであって、一社員が決められることでもないはずだ。けれども口を挟めば面倒くさいことになる。今さらどうなることでもない。僕は「そうなんだぁ」と気のない相づちを繰り返すことでこの場をやり過ごすことにした。それがいちばん気力・体力を消耗しないで済みそうだから。つまり、もはや柊子の話を真摯に聞こうとか、真面目に受け答えがしようといった誠実さが僕の中からとっくに消え失せていたのだ。 


「そのルールをみんなが励行するようにと思ってA3判の紙にプリントして壁際に並んでるスチールキャビネットに貼り付けたわけ。朝礼のときにちょうど司会の真後ろになる位置で、いやがおうにも一般社員の目に入る場所なの。いい考えでしょ。ところがね、1週間後くらいかな、私が昼ご飯に出て戻ってきたらそれが無くなってるじゃない。どこにも見当たらないの。誰かに剥がされたのよ。もう頭にきちゃってさ。そこで黙っていたらみっともないし剥がした奴の思うつぼだと思ったから、わざと他の社員が全員昼休みから戻ったのを見計らって、『ここに貼りだした新ルールがなくなっていますがどなたかご存知でしょうか?』って言ってやったわ。どうせそういう姑息なことをする人って正面から正論でぶつかったら何もできない弱虫に決まってるじゃない。案の定その場で『自分が剥がしました』って名乗り出る人はいなかった。ところがね…」 


そういえばカフェにはもう他の客がいない。窓際のテーブルに居座り続けている僕らだけだ。彼女の話は終わりそうにない。「30分くらい経って上司が戻ってきたから事の成り行きを報告したのよ。まぁ何も期待はしなかったけどね。バカ上司だし。どうせ動かないだろうし。でも黙ってはいられない。っていうか黙っているのは良くないじゃない。大事な掲示物をしれっと剥がすなんて立派な事件 なんだから。けれどそのバカ上司が何て言ったと思う?」《何て言ったと思う?》《どうなったと思う?》《なぜだと思う?》、こういう問いかけに見せかけた接続詞は自分の話したいことばかり話し続ける人間がよく使う。「…何て言ったの?」「『他の社員から苦情が出たから私が剥がしました。ここにあります』って、デスクの引き出しから私がつくったやつを出してきたの。四つ折りにされた上に端っこが折れちゃってて。もう貼れないじゃない。『ここにあります』じゃないわよまったく。でもそれ以上に『苦情』ってどういうこと?職場をよくするためのルールを考えて、貼りだして、それに対して何が『苦情』なの?って思ったからそれを聞いたの。けれどそれには真っ直ぐ答えられないのね。そしてあろうことか『言い方が難しいのですが、佐野さんは他の人のことを気にしすぎてご自分の仕事がおろそかになっていますよ。少し自重しましょう。それから今後職場に何か貼り出すときには上長の承認を得て下さい』だって。それ聞いた瞬間私の中であいつはバカ上司からクソ上司に昇格決定。どうして無能な人って自分は何もしないでおいて人のすることにケチをつけるのかしらね。つまり、あれよね。出る釘は打たれるっていうやつ。」


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ひろたよしゆき フリーライター 翻訳者