城砦 アラフィフ引きこもりの言い分 8
「バカ」とか「クソ」という言葉をたまに使う分にはいい。けれど何度も何度も繰り返し聞いているとだんだん胸が悪くなる。その不快さは昔インターネット上のアングラ掲示板で毒のある書き込みを目にしたときに感じた悪寒によく似ている。大量に毒のある書き込みをする人っていうのは暇を持て余しているのだろうと思う。今の柊子も同じなのではないか、という考えが胸をよぎる。それにしても不思議に感じるのは、彼女が話しているのは25年も前の出来事のはずなのに、まるで昨日起こったことのような生々しさがあることだ。嫌な記憶でも時間が経てば他の記憶に上書きされて次第に輪郭を失ってゆく。災害や戦場での凄惨な出来事や激しい虐待といったものなら別であろうけれど。彼女の25年前の記憶にはその後の記憶によって上書きされた痕跡がない。しかも彼女は先ほど「バブル入社組のババア」とまるで眼前にいるがごとく毒づいたけれど、今の僕らは当時のバブル入社組の年齢をとっくに超えている。その人たちをばばあと言うなら、僕はじじいで、彼女はばばあだ。彼女の言葉の裏にはそういう意識が感じられない。まるで彼女の中でこの25年間、時間が止まっているかのようであり、そこはかとなく痛々しい。
「いつ辞めてやってもよかったのだけれど、まぁこれも社会勉強だと思って3年間我慢した。実際社会勉強にはなったわよ。世の中にはたくさん無能なのに給料をもらっていて自分が優秀だと勘違いしている人が掃いて捨てるほどいるんだっていうことが分かったしね。けれど、そのうち私に対する嫌がらせが始まったの。上からはパワハラ、同期や下からはモラハラ。会議で私が提案したことはことごとくボツになるし、時間をかけてつくったパワポを最初から作り直させられたり、後輩たちは私が何かをやるように言ってもやらなくなったし。それどころか上から呼び出されて言いがかりをつけられるし。」「言いがかり?」「佐野さんには指揮命令権があるわけではないのですから他の社員に何かをしてもらいたいときは直接言わないで上長を通してください、と来たわ。おかしいでしょう?そんなの」「うーん」僕は自分でもびっくりするくらい上手にYesでもNoでもない相づちを打った。
「いちばんむかついたのはね、社内システムの入れ替えがあったときよ。新しいシステムに移行する前に、主任以上の役職者は情報システム部から直接講習を受けるのだけれど、私たち一般社員は各係から代表を一人選んで情報システム部から基本操作の講習を受けて、で、その代表が他のメンバーに操作を教えるっていう段取りになったの。ふつうに考えたらうちの係の一般社員でいちばん古いのは私なのだから私が代表で講習受けるのが当然じゃない?」「うーん、そう…かもね」そうは思わない。「ところがね、代表に選ばれたのは私より1年後から入ってきた大島っていう子。大して出来る子でもないのに どういうわけか彼女に白羽の矢が立つのね、入ってきたばかりの新人たちまで分からないことがあると大島さん大島さんって 何でもかんでも彼女に聞くのよ。どうしていちばん上の私に聞かないわけ? 私に対するあてつけかしら」
なるほどそういうことか、と僕は思った。柊子は 自分のことを係の一般社員の中で「いちばん上」だと認識していたのだ。どういうわけか彼女には「自分は他社員よりも古いのだから 他社員を指導監督する立場にいる」という、周りから見れば勘違いとしか言いようのない不思議な観念がある。ともかく彼女は自分が係の頂点にいると信じて疑わなかった。柊子が自分勝手にルールをつくって他社員に押しつけたり、権限もないのに後輩を顎で使ったりするうち、そうした彼女の内心での勘違いは周囲の人からもありありと見えるようになり、そしてその当然の帰結として彼女は社内で浮いた。新システムの指導係に柊子が選ばれなかった理由も察しがつく。彼女から習いたいと誰も思わないのだ。
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