城砦 アラフィフ引きこもりの言い分 5

「『親の言うなり』って、たとえばどんなことで言いなりになったの?」「全部。ぜんぶよ。何もかも。」吐き捨てるように言ってから、彼女は思い出したように紅茶のカップを持ち上げた。けれどもせっかく持ち上げたカップに口をつけることなくソーサーの上に戻す。陶器同士がぶつかり合いティースプーンが揺れる音がした。「私ね、本当は法律を勉強したかったの。」「法律かぁ」「そう法律。弁護士になるつもりだったのよ。弱い立場の人を守るっていう仕事、いちばん私の性に合っているし。」「じゃ、大学もそっち系に行きたかったの?」「そう。いちばん行きたかった大学はT大学の法律学科。偏差値的にも無理はなかった。けれどね、親は経済学部に行けって。だから仕方なく経済に行ったの」「そうなんだ…。」少し不愉快だった。僕が必死に勉強して入ったあの経済学部に彼女は仕方なく入ったというのか。その微妙な不愉快さが僕の背中を押したのだろう。お行儀良く彼女の話に延々と傾聴しているだけではなく僕なりの異議を差し挟んでみたくなった。ちょうどよいタイミングでウェイターが水を注ぎ足しに来てくれた。


「けれどさ、僕らの大学も決して悪くないじゃない。うちの大学にいなかったら柊子はY電機に就職も出来なかったんじゃないかな? それにT大学よりうちの大学のほうが学費も高いよね。たしか妹さんは短大卒じゃない?柊子のために高い学費を惜しまなかったのだから、お父さんなりに、お母さんなりに、柊子のことを考えてくれていたっていうことなんじゃないかな?」僕にしてはずいぶん気の利いた切り込みだった。この先たぶん少なくとも1時間くらいは柊子の話に付き合わなければならないだろう。それならばせめて先ほどからの息詰まるように淀んだ空気を変えたい。柊子と彼女の両親との間にどんな問題があったにせよ「嫌なことばかりではなく少しはいいこともあったのだ」と気付けば、話の流れもよい方向へ変わるはずと僕は見込んだ。けれども逆効果だった。


「Y電機?あーなつかしい。あのクソ会社」。彼女の顔に蔑むような薄笑いが浮かび、空気がさらに一段と淀む。Y電機の名前を出したのがよくなかったらしい。僕のミスだ。クソ会社と言い捨てるからにはこの先も楽しい話が聞ける見込みはないだろう。「言葉は悪いんだけど」彼女の表情に蔑みの色が濃くなった。「一言で言えば無能な人の溜まり場ってとこね。」僕にはうまく返す言葉が見つからない。「上の人は管理職とは名ばかりで管理ができてないし、同期はやる気が無い。新人たちは言われたことを言われたとおりにできないし」 僕の中で先ほどから湧き始めていた疑問が確信に変わった。たとえどれほど柊子が優秀だったにしても上司から新人まで十把一絡げに無能呼ばわりするのはフェアなわけがない。つまり彼女が話していることはおそらくとても主観的なものであって、ストレートに言えば自分本位だ。となれば先ほど吐いていた両親への憤懣にしても彼女の言葉通りに受け取る必要はない。それにしても彼女の話には区切りとか余白といったものがない。まるで工場から漏れ聞こえる機械音のように途切れることなく続いている。聞いているのが息苦しいのはそのせいもあるだろう。


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ひろたよしゆき フリーライター 翻訳者